「息子が家でお腹を空かせている」
“アルツハイマー型認知症”を患う87歳の女性、太田さん(仮名)は、夕方ごろになると決まって「息子の晩御飯を作ってやらなきゃ」「子供がお腹空かせて待ってんのよ」と言って、荷物をまとめ始めます。太田さんの息子さんは、実際は60歳近い年齢になっています。しかし、太田さんの中では違います。息子さんは、まだ幼い子供だと思っているのです。
『幼い子供がひとりで家にいる』と考えるだけで、いても立ってもいられなくなるのは想像に難くありませんよね。私はまだ、子供を持ったことはありませんが、太田さんの子供を心配する姿を見ると“母親心”を強く感じさせられます。「帰らなきゃ」と言って荷物を持ってウロウロと歩き回る太田さんの心の中は、不安でいっぱいなのです。
私たち介護士に出来ることは…
不安でいっぱいの太田さん。こんな時私たちは、どう声を掛けたらいいのでしょうか。
「太田さん、あなたはもう87歳じゃないですか」「息子さんはもう大人になってますよ」
どうでしょうか。私は介護を始めたころ、太田さんの気持ちが想像できず、このような声掛けを行ってしまいました。すると当然、太田さんは怒ってしまいました。「何言ってんのよ⁉」と、はじめて怒鳴られた記憶は、今でも忘れられません。『不安』というだけでもイライラしてしまうのに、知らない小娘に“こんなこと”を言われたら、誰でも怒ってしまいますよね。
私が、どうしていいか分からなくなっていると、先輩が助け舟を出してくれました。先輩が教えてくれたのは『寄り添い』と『傾聴』です。何が不安なのか、丁寧に聞き取り「うん、うん…」と聞きます。太田さんが不安なことを話せば「それは心配ですよね…」と同調し、太田さんの話を否定しません。
そして、話を聞いたうえで、「お子さんがいらっしゃるという話は、伺っています。お子さんは、妹さんが預かってくださっていますから、安心してください」と伝えました。太田さんのは、話を親身に聞いてくれた先輩に対して、「この人が言うなら…」という気持ちが生まれていました。私の時とは、打って変わった笑顔で「なあんだ、よかった~」と胸をなでおろします。
「やっぱり帰らなきゃ」
安心した太田さんは、先輩に連れられ皆がいる広間へ戻って来ます。「お茶でも飲みませんか」と言って席につきました。少ししてお茶もまだ飲みかけの頃、太田さんは立ち上がると「そろそろ、帰らなきゃ」と言います。
私は、その時「さっきのやり取りはなんだったんだ…!」と感じました。まだ、5分ほどしか経っていません。「もう忘れちゃったんだ…」と思いながら、私は太田さんに「どうしたんですか?」と聞いてみました。すると、太田さんは、さっきよりも少し朗らかに「もう帰んなきゃなんないの」と言います。私は、先輩がしたように太田さんの話を聞き、説明をすると、さっきよりも早い段階で「あ、そっか!」と言って納得してくれました。そしてまた少しすると、「帰らなきゃ」と言います。
それを繰り返し、1時間が経つ頃、やっと太田さんの訴えが止まりました。訴えが終わる頃には、私はぐったりとしてしまいました。話しても話しても、同じことを繰り返し聞かれることは、思った以上に大変だったのです。
今回、お話したのは、たまたま穏やかな時間だった時の話です。私たち介護士は、ご利用者様の話を聞くだけでなく、様々な“業務”を抱えています。
お風呂に入れたり、トイレのお手伝いをしたり、ご利用者様の様子を記録することも介護士の仕事です。ご自分で飲み物が飲めない方には、定期的に飲み物を飲ませたり、ご飯も食べさせたりします。掃除や、書類整理等も行います。そして、何よりも介護業界は人手不足が問題です。「丁寧に話を聞いて、安心してもらいたい」という気持ちはあれど、それが叶わない状況というものが出来てしまいます。その現実と理想のギャップこそが介護の難しいところであり、課題です。
「帰りたい気持ち」が生まれた訳
ご利用者様が「家に帰りたい」と訴えることを『帰宅願望』と言います。
これは、認知症の症状にある『見当識障害』というものが、関係しています。
『見当識障害』とは『時間』『場所』『人』の3つの種類があります。
・『時間』…朝晩の判断や季節の認識が出来なくなる。
・『場所』…どこに居るのか解らなくなる。目的地はわかっていても辿りつけなくなる。
・『人』……家族や友人などの名前や関係が解らなくなってしまう。
太田さんの場合、『場所』と『人』の見当識障害があります。
・場所:「自分がどうして此処にいるか解らなくなっている」
・人 :「息子さんが大人になっていることが解らなくなっている」
このような症状を『中核症状』と言います。太田さんが困ってしまう原因になる大元のことです。
冒頭で紹介した『帰宅願望』というのは、『BPSD』と呼ばれます。中核症状が原因で起こる、周辺症状のことです。私の働く施設では、この『BPSD』のケアをしています。『BPSD』とは、主に環境に原因があると考えられており、環境を改善することで『BPSD』の改善が見込まれているためです。
では、太田さんが帰りたくなってしまった訳の一例を挙げます。
まず「お腹が空いたなあ…」と太田さんが感じています。太田さんのなかでは、「それを解決しよう」と考えました。そこで「ご飯を作らなきゃな…。」という考えに変わり、「家に帰ってご飯を作らなければ!」「そうだ、子供も待っているんだった!」と言う行動に発展し、「帰りたい気持ち」が生まれたのです。
この場合は、空腹を満たすことで『帰宅願望』が消失する場合があります。『BPSD』のケアは、この「お腹が空いたなあ…」となってしまう環境を工夫しよう!という考え方です。
いつもお腹が空く時間が決まっているのであれば、そのくらいの時間に『軽食を出すようにする』等です。人間相手の仕事ですから、全てが理論通りに行くことのほうが稀ですが、何もしない状況と比べれば、『BPSD』の発生率は下がります。業務に追われて、話が聞けないとしても、ご利用者様には関係ありません。不快な記憶が蓄積されてしまうと、どんどん訴えや行動がエスカレートしてしまいます。
それを防ぐためにも、出来るだけ不安を取り除けるように、このような『環境からの働きかけ』が大切になって来るという訳です。太田さんは不安になることが減る。私たちは、業務が軽くなる。困りごとを正しく理解、判断することで、太田さんも私たちもハッピーに過ごすことが出来るようになるんです。