思い出ドリル「おとなの学校メソッド」のはじまり。

— それは、対立してばかりいた祖母と私の
つかの間のおしゃべりでした。

おとなの学校は、平成18年に熊本で始まった学校形式の高齢者施設です。

回想法をベースにした施設づくりとレクレーションで、認知症高齢者が見違えるように意欲を取り戻しました。

この施設で使い始めた「教科書」と「教則本」をご家庭でも使えるように、したのが思い出ドリル「おとなの学校メソッド」です。

ご家庭でも使えるようにした理由は、施設での取り組みがとても素晴らしい成果を上げていたので、それを一般のもっと多くの方に使ってもらわないともったいないと思ったからです。

その理由以外にも、じつはもう一つ理由があって、
それは私と実の祖母とのある体験からくるものでした。

両親を30代に亡くした私は、以来、残された肉親である祖母との葛藤が始まりました。

その葛藤の中で生まれた思い出ドリル「おとなの学校メソッド」。
今回は、そのことをお伝えしようと思います。
きっと、どなたにも起こりうる二人の関係と気づきです。

祖母のおいたち

祖母静子は、大正2年に鹿児島県川内市近くで生まれました。
鹿児島県出水市の大きな土地持ちの家に嫁ぎ、私の母と叔母を産みましたが、二人とも熊本市内で開業する医師と結婚。

祖父が亡くなってから鹿児島の家で独居となり、自由に生活していました。

ところが、私の母が1994年癌で急逝。

その5年後、祖母が1999年に自宅で倒れているところを発見。
片肺全部が肺炎という状態で、熊本の私の運営する介護施設に引き取りました。ここから、祖母と私の関係は始まったように思います。

母の死後。言い合ってばかりの15年。

祖母は、2000年に当社が運営する「ケアハウスゆいの家」ができた当初から、ここに入居しました。当時87歳だったと思います。
人当たりも良く、よく笑っていたので人から嫌われることはありませんでした。食事を作ること以外、なんでも自分のことは自分でやりました。

4階にある部屋までの行き来は全部階段。
洗濯物も自分でやり、屋上にある物干しにそれを干す自立した生活ができる人でした。

ただ、通所リハビリテーションに行くのをとても嫌がりました。
「あんな年寄りばかりのところにはいかない」よくあるプライド高い高齢者の15年を越える葛藤の末、
私がそれを諦めるほど、自分の意思を通す人でもありました。

祖母にしてみれば、「仕事」は娘の仇(かたき)でした。
それで、私が仕事をするのをとても嫌いました。「仕事なんて、どうしてするの?仕事を拡大するなんて必要ないじゃない。」それが祖母の口癖でありました。祖母の「仕事をするな」という要求と私の「通所リハビリテーションに行って。」という要求のぶつけ合いが私と祖母の会話でした。

会えば、お互いに相手を責めるという時期が随分長く続きました。15年くらいでしょうか。ちょうど祖母が百歳になった頃でした。
折しも、祖母は認知症の症状の一つである「物盗られ妄想」が始まっており、私に用事があると言って呼びつけては、「私にはお金がないの。」と言い続けていました。

ですから、祖母と私の会話は、「お金がない」、「お金はここにあるよ」、「もっと欲しい」、、、、というお金の話ばかりになっていました。互いの責め合いから、お金の話へ、話題は変わっても楽しい話は皆無でした。

突然の関係の変化。仲良くなるのは簡単だった。

おとなの学校を運営していた私は、ある時、新しいビジネスモデルとして「孫がおばあちゃんと話をすることで認知症を予防」できるのではないかという取り組みを考えつきました。そこで、実際に祖母に会って話をすることにしたのです。

当時の祖母の口癖は「死にたい」でした。
会えば、最初は「もう死にたい。もういい。」から会話は始まりました。

以前であれば、「いい加減にしてよ。」と否定するところ、私はただひたすら「死にたい」を聞きました。
祖母が「死にたい」と言うのに飽きたくらいに「そういえば、おばあちゃんの若い頃はどんなふうだったの。」と聞き始めます。そうすると、祖母は、女学校時代の話をし始めるのです。毎回、ほぼ同じでしたが、祖母がいかに優秀な生徒だったか、友達に人気があったかを自慢げに話すのを私はひたすら聞きました。

毎回、同じ話を30分ほど聞き続けていると最後に、
「さ、もうあなたも忙しいでしょう。帰りなさい。」と言われ、気持ちよく部屋から送り出してくれました。

こんな簡単なことだったんだ、おばあちゃんと仲良くなるのは。そう思った瞬間でした。

それから、私は祖母の部屋をよく訪ねるようになりました。
祖母の好きな甘いものを持って、ひたすら祖母の話を聞きました。
毎回よくも同じように「死にたい」から話が始まり、30分で笑顔に。
笑顔になったところで、「おばあちゃん、一緒に写真を撮ろう。」と言うと、スマートフォンの画面を覗き込み、画面を見て笑顔を作るようになりました。

行くたびに笑顔の写真が増えていきます。
私はそれをフェイスブックにあげました。
全国にいる私のフェイスブックの友達は祖母の笑顔に「いいね」をたくさん押してくれました。

100歳、101歳、102歳と歳を重ね、いよいよ、105歳へ。
祖母は私とは話をするけれど、それ以外のリハビリなどはずっと「やらされ」ている感じでした。徐々に体の動きも悪くなり、昔の記憶も消えていきました。そして、106歳で天命を全うしたのです。

私は、満足していました。祖母も想いを残すことなく、旅立って行ったと思います。私と祖母には、たくさんのおしゃべりの思い出がありますから。たくさんの自撮り写真の笑顔と共に。

ケンカばかり。言い合いばかり。でも、きっと変われます。

この祖母との出来事をきっかけに、私は確証を持てました。
どんな家族も、関係をやり直せる、と。大丈夫です。15年もずっと変わらず根っからの頑固者だった私の祖母が変わったのですから。

たとえば、「言い合う」ということは、思いが受け止められていないから、まだ言い合うのです。
まずは、思いを受け止めて、聞いてあげれば、きっとその思いも成仏できます。そうしたら、言い合いではなく、楽しいおしゃべりが始まるはずです。

思い出ドリル「おとなの学校メソッド」の大事な根っこは「おしゃべり」にあります。
そして、そのおしゃべりのスタートラインは、「聞く」という姿勢です。
いま、みなさまにお送りしている思い出ドリル「おとなの学校メソッド」の大事なスピリットは、私と祖母のこの15年にわたる葛藤の末に生まれました。

素晴らしい家族関係の変化、そして後悔のない人生が、多くの方に届きますよう願っています。